ニュースで連日米不足が伝えられている。

十月には新米の玄米が一年分届くので、保管庫を開けて残量をチェック。まだかなり残っている。
先日、六十年前のアルバムを見つけ、帽子の学校(サロン・ド・シャポ―学院)時代の初々しい友と私の顔に”可愛かったのダ„と真剣に学んだ頃を懐しんだ故か、久美子さんお米大丈夫かナ、と二十年ぶりに電話をかけた。

共に田舎のサラリーマン家庭の娘、華やかなクラスメートの中で地味で目立っていた二人で、体力、気力で頑張っていた。
「お米ある?送ろうか?」に「一年分予約で毎月届けてもらうから心配無いよ…」やはり変らず堅実。
「じゃあ正月前に田舎の物を送るネ」「待っている~」で少々長いおしゃべりを楽しんだ。

それ以降しばしば帽子を学んでいた頃のあれこれを思い出す。

学院主催のピクニック、奥多摩方面だったと思う。
虹マスの養殖場で釣りを楽しみ、近くの河原でゆっくりお弁当、久美子さんと私はバーベキューの食材を持参、タレも自作のもの、河原の石を積み、枯木を集め、バーベキューを始めるとビール片手に先生達が寄ってみえ、魚、肉、野菜、おにぎり、餅等、焼けると即、誰かの口へ、で私が食べたのはししど一ケのみだったのをはっきり覚えている。以後私は料理上手と思われてしまった。

 

デザイン科の最後はファッションショーを学生達だけで催すのが義務。
自己負担を減らす為、案内状に広告を出して、おしゃれな有名会社が良い、意見はどんどん出るが、誰が交渉するのか、大変な事だと黙って聞いていたら「広告とりは吉田さんと時友さん」とボス的な夢見やさんが決めつける。

「ダメかも知れないけどやってみます。ダメだった時は貴方も動いてね」と引受けた。

先ず広報の方に手紙を出し、次に電話で会社に伺う日時を決めて頂き、身だしなみを整えてお願いに行く、どきどきし乍らも伺わざるを得ない。
お願いした会社のうち、三社は即応諾下さり、そのうち二社は商品の提供も申し出て下さり、観客集めに大いに助かった。

ひとつ苦い思い出がある。
老舗の靴屋にもお願いの手順をふんで、銀座の店の事務室に伺った。
かなり長い会話の後で、この事務所はそういう事案を決める所では無いから台東区の工場の方へと言われ、私達はそこへ廻り、再び同じ内容を話し、初老の紳士がソフトムードに、いろいろ質問されたのだが、自分はそれを決める立場でないので〇〇に、と時間と場所を告げられた。
もう夕刻、あきらめた。

当分はその店の靴を買わなかったが。現在私の靴箱に二足ある。流行に関係無く堅牢、長く使っている。

当時のファッションショーは音楽とナレーションが定着、控え目なピアノに、声の良い俳優、ナレーションの原稿がポイント、その分野のエキスパートが作詞で有名な安井かずみさんだった。
彼女が紡ぎ出す言葉は魔法のようにショーの空気を優雅に格上げしてゆく。

 

卒業作品発表会は予算が少ないので、原稿依頼や、演出家に相談も出来ない。
担任の森川先生から「貴女しか居ない」と言われ、二日間寝ずに25名50個の帽子をより良く見せる為の文章を書いた。

ショーの最後は私作のウエディング、クリスマスツリーに飾る三色の点滅するイルミネーションを土台にセット、淡いピンクと白いかすみ草の造花を約1000ケ、チュールのリボンにつけて、土台からの光を柔らげて、幻想的に
電源はドレスの袖を通してブーケの中へ隠し、自由に歩けるようにした。

ショーの最後、明かりを落とした舞台に三色の光が点滅すると、会場がどよめいた。舞台の袖で進行係をしていた私にも皆さんの驚ぎの表情が見え、処々の苦労が報われた、と感じた。

それまで私の作品を褒める事が無かった院長先生が
「良くやったね。実に良かった」と肩をたたいて下さった。

次の年、有名なデザイナー、二人が相次いでイルミネーションのウエディングを発表されたが、お二人共、長いコードを引きずる構造で”あら!„でした。