作業中に点けたラジオで外地から終戦で引き揚げた人達にインタビューをした昭和23年の放送を再放送していた。
引き揚げ船に乗る迄の長い長い列 すし詰めの船室 日本に着いてもすぐ帰郷とはいかず 待機所で何日も待ち 小さな漁船で列車が動いている所まで移動 ぎゅうぎゅうの列車で可能な所迄移動 後は線路を歩いてやっとたどり着いた父祖の地に居場所は無く 荒れ地を開墾して農地を作った等 我家の事情と同じで大変だったなあと両親の苦闘とも重なり重く聞き入った。

私が3歳の時敗戦 12歳を頭に4人の娘と祖父と共に帰国した母は祖父の分家に辿り着いた。父は国家公務員であった為半年遅れて帰国した。
造り酒屋の跡継ぎだった祖父だが策を労したグループの乗っ取りに遭い 祖母の兄が手広く商いをしていた朝鮮に渡った経緯がある。帰った故郷は酒屋を乗っ取った一族が牛耳っており様々な嫌がらせが待っていた。
幼い娘たちにまで道を歩く度近所の子供たちが石を投げて来る始末で 知らない人でも大人の近くを歩き悪ガキが石を投げられないよう行動した。
引揚者と戦火を逃れての疎開の人達はよそ者と呼ばれ、わけもなく差別され小学校に入っても不公平な扱いが続いた。
5年生になって他の町に住む先生が担任になられ 正当に成績が評価されるようになった。
6年生になる頃 長姉の大学合格の電報が届いた。
翌朝 村の男二人が来て「村長の息子さんが岡山大学じゃが引揚者の娘を広島大学たあ何ならなあ 身分を考えんさい 生意気で」と凄く興奮して母に詰め寄っていた。
戦後80年 孫の代になっても差別したい意識が有るようで非現実的なデマを流布されるが子供の時から培われた免疫が有り気にしない。
何より価値観を共有する友人達に恵まれ大きな支えであり宝物だ。
どの地でも引き上げの人々は様々なご苦労を乗り越えて頑張って来られたとおもう。
明治生まれながら名の通った女学校で学び卒業後は母校で教職につき結婚まで働いていた母は田舎では学歴を口外せず自宅で和裁を教え娘たちに不自由な思いはさせなかった。
父は国鉄に勤め田畑を増やし夜勤明けの日は農作業に励んでいた。
農村の高齢化 少子化により米作を請け負う人も居なくなり田畑は猪の縄張りになってしまい天国の父には申し訳ない状態だ。。娘たちの成長を励みに頑張り貫いた両親との日々をNHKの放送を機にしんみり 有難くおもいかえしている。
